プロフィール

デンタルクリニック東陽台 院長 大石 憲一 の
わたしの歩み
デンタルクリニック東陽台 院長の大石憲一です。この度、私の詳しいプロフィールをご紹介することにしました。
あなたの治療を担当するにあたって、「どんな人が私の治療をするのだろう?」と不安に思う方も少なからずいらっしゃるかもしれません。当然といえば当然です。
普通、職場でも初めてお会いする方には、自己紹介をしたり、名刺をお渡ししたりして自分をまず知ってもらう努力をして信頼を得ようと何らかの努力をすると思います。
医療機関においても本来ならそのようにすべきなのでしょう。「私は○○な生い立ちの人間です」「医療に対して○○という想いを持っています」 こうお伝えすれば、「ああ、こんな考え方の先生なんだ」と少しは安心されるかもしれません。
でも、医療機関も患者様もそんな余裕がないのが現実でしょう。医療には、ある程度の迅速性が求められるからです。
でも、あなたが作ってくださった、治療のための貴重なお時間 (予約時間)を私の自己紹介で費やすのももったいない・・・ でも、私の話があなたの安心につながれば・・・
ここで個人の話をするのも不適切かと思いつつも掲載しました。
長文ですので、時間の余裕を持ってお読みいただけましたら幸いです。
私は昭和44年4月29日に福山市で生まれました。
父は広島県呉市の出身で、昭和40年の日本鋼管(現JFE)福山製鉄所発足に伴い、福山にやってきました。母は福井県の出身で、私の生誕当時は専業主婦でした。
<幼少期の想い出>
公園にて(4歳頃)
わたしの歩み
当時は木之庄町(福山城の北西)のアパートに住んでおり、2歳までそこで暮らしていました。母はもちろんのこと、父もよく私の面倒を見てくれ、大した病気もすることなく元気に過ごしていたと聞いております。 その後、伊勢丘の鋼管団地に移り住みました。”団地での生活”が時代の流行だったそうで、G棟(今のTUTAYA伊勢丘店付近)に住んでいました。
ただ、私と2歳下の弟を連れての、エレベーターのない団地の4階の上り下りをはじめ、団地生活はいろいろ大変だったようで、1年少々でちょうど宅地整備中だった朝日ヶ丘(伊勢丘8丁目)に移り住みました。
実家にて(5歳頃) わたしの歩み
伊勢丘や幕山、坪生や大門、春日には自転車でよく「冒険」をしていました。ですから、現在の開業地周囲である福山市東部地域は私にとってホームグラウンドです。
私が心の中に地元への愛着を培ったのは、この就学前の頃の様々な経験が基礎になっているのかもしれません。
<医療の道を目指したきっかけ>
私が医療の道を目指したきっかけは、飼っていた犬の死と祖母の死でした。よくありがちな話ですが、私にとってはかなりショックな出来事でした。
木之庄にいた頃には犬を飼っていましたが、朝日ヶ丘に移ってから父は4匹の犬を飼いました。その中で私が好きだった犬は、毛が茶色がかった、やや小型の柴犬で、名前は「アカ」。よく父とともに散歩に出かけたり、グラウンドで遊んだりしたものでした。
小学1年生だったと思います。朝うずくまっているアカを見て、「アカが元気ないよ、病院に連れてったら?」と両親にお願いしましたが、今のように安易にペットを動物病院に連れて行ける社会環境ではなく、また父も母も仕事だったので、様子を見ることにしていました。
でも学校にいる最中も気になって、学校が終わって走って帰ってみると、すでにアカは死んでいました。
毛布を敷いたダンボール箱の中に小さくうずくまって眠っているアカを見て、子供心ながらショックを受けました。何もしてあげられなかったことに・・・
その後、手当をしようとしまいと、弱った犬は割と早く死ぬことがよくある、ということを知りましたが、やはり当時はつらかったですね・・・
そして、祖母の死。父方の祖母は呉市の本家で叔父夫婦とともに暮らしていました。私は小さい頃から毎年遊びに行って楽しいひと時を過ごしました。祖母も外孫である私をよく可愛がってくれました。しかし、小学1年生のクリスマスに祖母は亡くなりました。かなり高齢でしたが、死因はガンによるものでした。
物心のついた子どもにとってクリスマスという日は、プレゼントを貰おうが貰えまいが、サンタがいようがいまいが、特別な日だと思います。その日に亡くなったことはこれもまたショックでした。
「神も仏もあるものか!」と・・・「何とかできなかったのだろうか」と・・・ (今なら、クリスマスに天に召されて・・・なんて考えもできるのでしょうが、子どもの頃なのでそれくらいの発想にしかなりませんでした) もちろん、当時の医療技術を尽くしていただいた結果なので仕方がないことだと思いますが、文章に何と表現したらいいか分からない、複雑な考え・思いを子どもながらに抱いたことは間違いありません。
少しでも苦しむ人々の助けになれば、自分には何ができるのだろうか、神頼みをする前に、まずはできる人の力で限り悩み、考え、行動する・・・
命の大切さ、そしてそれを守るために行動することの重要性について、この頃にその基礎を学んだのかもしれません。
<小学生の頃>
小学生時代は、近所の空き地で友達と遊び、そろばん塾に通う生活をしていましたが、小学3年生からは町内会のソフトボールチームに所属しました。
体が小さかったですが足が速く器用だったため、父はほぼ毎日、早朝から家の前の道路で守備練習やバント練習に付き合ってくれました。その努力もあって、小学5年生からは1軍で2番・セカンドを務めました。苦もなく上達できたのは父の指導の賜物です。
努力することの重要性や努力による達成感を体得し、その後の人生での困難に立ち向かえたのはこの頃の経験がものをいったのかもしれません。
そして、現在の仕事で大切な心構えである「人のために」「チームで動くことの重要性」についても勉強できたのかもしれません。
父は私の出た試合のほとんどのスコアを取ってくれました。
2年間で100試合はあったかと思います。今でも実家にはスコアブックが残っています。
写真も数多く残してくれました。今の自分が子どもたちにそれをできていないのが大いに反省すべきところなのですが・・・
優勝旗を手に
優勝旗を手に
5年次には市のソフトボール大会で優勝、6年次では3位になりました。今でも良い思い出です。打率が6割、出塁率が7割、9割以上がバントでの出塁、盗塁もしまくりましたが、残念ながら打ったホームランはたったの1本でした。小さいながらも技術を磨いた結果でしょうか。
これらの経験は私の今後の人生において、やる気と自信と信念を築けた時期だと思います。いわゆる 心・技・体 を培えた時期でした。
さて、勉強の方は、というと、先述のそろばん塾では全珠連1級までは取りました。さすがに段を取るまでには至りませんでしたが、算数や理科は好きで、その後の中学受験にも大変役立ちました。当時そろばん塾では小学1年生の子はまだ早いのでついていけないのではないか、と一度入塾を断られかけたのですが、母がねばって入塾させてもらいました。
修学旅行・京都にて(小6) わたしの歩み
論理的な考え方や記録の重要性、そして人のために、という考え方はこの頃に培われたのかもしれません。
<中学生の頃>
この頃の将来の夢は、「パイロット」「医者・歯医者」でした。子どもにありがちな憧れの職業でしたが、特に深く考えていたわけではありませんでした。
しかし、小学生の時の身内の死の体験と、「人のために尽くせる人間に」という父の姿から学んだ考えが、後者の道を目指そうと一層考えるようになったと思います。
中学受験は、地元の進学校であった広大附属福山を目指しました。が、残念ながら2次選抜で落ちてしまいました。クジ運が悪かった(今でも覚えています、9番違い)とはいえ、この出来事はかなりのショックでした。 誰にでもあるように、その後も何度もヘコんだり、ままならない出来事があったわけですが、今思うとこの時期に失敗を経験していてよかったのかもしれません。
でないと、人間はみんながみんな強く生きられるわけではない、そのことを配慮してあげられないと物事は進まない、という現実を知ることもなく、勘違いしたまま成長していたでしょうから。といって、今が完璧なんて到底思っていません。日々修行、そして生涯勉強です・・・
運動会にて(中2)
運動会にて
その後、多少のドタバタがあった後、無事、金光学園中・高等学校に進学しました。当時は進学校でありながら、のんびりした雰囲気がありました。友人と語らったり、遊びに行ったりして過ごしました。部活はあまり熱心でありませんでしたが、穏やかな日々を過ごしました。
この学校は岡山県西部~広島県東部の様々な場所の出身の人が集まっていたので、その人個人の考え方の違いもそうですが、地域性というのを考えさせられたこともしばしばありました。
地域でそこそこ勉強に自信のある子たち、個性の強い子たちが集まった学校なので、勉強やスポーツなどで競争しながらも協調性を培うことで、成長できたのではないかと思います。
他人を認めつつ、自分も主張する、今の職業にとって必要とされる能力を知らず知らずのうちに養えたのかもしれません。
私はこの学校の母体である金光教の信者でも何でもないですが、ここの校訓である「人を大切に 自分を大切に 物を大切に」の精神は父から学んだ考えと合致していたのでうれしく思ったことがあります。
<高校生の頃>
高校の頃は、クラスの友人に引き込まれて文芸部に所属していました。といっても、文化祭以外は文学作品を読みながらの「お茶会」でしたが・・・今思えばくだらないことやバカなことをやっていましたが、勉強もしながら文化部を楽しむという、みなさんにも経験があるであろうことを私も同じくやっていました (最近は当時の仲間とも音信不通になっていますが・・・)
文化祭・体育館前(高2) わたしの歩み
でも、それが祟ったのか、大学医学部の受験は見事失敗しました。勉強不足を当初から自覚していたとはいえ、やはり受験の失敗はショックでした。浪人生活は避けられるようなら避けた方がいいかも・・・「後悔先に立たず」を痛感した頃でもあります。
<浪人時代~歯学部入学へ>
浪人時代もやはり医学部志望でした。医学部を目指すなら2浪3浪は当たり前、とは世間でも言われますが、やはり精神衛生上良くないですね。夢と現実のはざ間でいろいろ悩みました。
夏過ぎの時点で偏差値が国立医学部の水準に届きそうになさそうだったので、歯学部に切り替えました。「医者か歯医者に」と思っていたのと「大学進学なら国立のみ、浪人は1回だけ」という両親との約束があったので、歯学部でもいいやと思って受験しました。 でもそれは、
いい意味でも悪い意味でも、大きな勘違いでした。
ちょうどセンター試験への移行期でA日程とB日程、前期日程と後期日程が大学ごとにまちまちだった頃の受験だったので、岡山大学歯学部と広島大学歯学部に合格しましたが、家から距離的に近いのと歴史の浅い新しい学部だから活躍できるチャンスがあると思い、前者を選びました。 でもこれも同じく、
いい意味でも悪い意味でも、大きな勘違いでした。
人生って奥が深いです・・・って言うほどしっかり生きているわけではありませんが。 (あの頃は何とか大学に行ってくれないかとヒヤヒヤしていた、その後母が語ってくれましたが、まさに「親の心、子知らず」でした。自分のことしか見ていなかったことに今も反省しています・・・みそぎも未だに十分できていないのもつらいですが。)
<大学生活>
浪人生活を経て晴れて大学生活を送ることになりました。大学に入ったら部活でスポーツをやろう、それも今まで経験したことのない球技にチャレンジしてみようと思っていたところ、たまたま入学式後の勧誘で歯学部テニス部の勧誘があったのでテニス部を選びました。これもまたその後の人生を大きく変えた分岐点となったと後から振り返るとそう思います。
長野・白糸の滝(4年次)
運動会にて
それまでは浪人生活後ということもあって、まじめに勉強の方に力を入れていましたが、2年次後半からまじめに取り組むこととなったテニスを通じて、多くの先輩や後輩のみんなとのつながりを得ることができました。 今でも懇意にしていただいている諸先生には、いつも助けていただいて感謝しております。
同じ道を目指す人々とのつながりを得られたこと、これは今でも私の宝であり、強みでもあります。
3年生からは専門的な講義や実習もあって、また医科とは似ていて全然違う分野である歯科を学ぶにつれ、大変さと思い違いを痛感して、「やっていけるのだろうか・・・」と思うときも多々ありました。でも、クラスのみんなやテニス部の先輩や後輩を通じて元気をもらい、無事頑張ることができました。
軽井沢・大会会場(4年次) わたしの歩み
軽井沢・大会会場(4年次)
運動会にて
テニスにもこの頃から身を入れることとなり、5年次からは全国の29の歯学部が集まって行なうスポーツ大会(全歯体)の硬式テニス部門で、岡山大学歯学部でのレギュラー選手の1人として出場でき、本戦でも勝つことができました。我流で決して美しいテニスプレーではありませんが、自分も仲間も一つになって頑張った経経験は様々な意味で勉強になりましたし、現在に至るまでの自信の源にもなっています。
6年次の臨床実習では、指導医のもとで実際に診療を行なうという制度で、当初は慣れずに医局と診療室と図書館を駆けずり回っていた覚えがあります。
拙い知識と技術で患者様と指導医の先生方には大変なご迷惑をおかけしましたが、数多くの経験をさせてもらって感謝しております。
夜中の3時まで大学の実習準備室に残って翌日の診療の勉強やレポート作成に追われたり、そのまま眠り込んでしまったりしたことも何十回もありましたが、なんとか無事卒業できました。
ここで出会った様々な先生方の行動や言葉は私の大切な財産になりました
<国家試験~大学院・予防歯科学講座へ>
1月の卒業試験が無事終わると歯科医師国家試験の勉強に2ヶ月間没頭することになりましたが、臨床実習で得た知識はこの勉強を割りとスムーズに進めることができました。
3月中旬の2日間、大阪での試験も無事終わり、4月には晴れて歯科医師としてのライセンスを得ることができました。
その頃はちょうど阪神淡路大震災とサリン事件があった、日本現代史でも注目すべき出来事があったはずなのですが、あまりにもプライベートで重要なことが重なったため、世間を見る余裕がなかったのも確かです。
もったいないことをしたと今振り返ると残念に思っています。
卒後の進路についてはぎりぎりまで悩みました。これからはむし歯治療から歯周病の時代になると思ったので歯周病のオペの技術が学べる講座に残ろうかとも考えました。でも、もっと大きなことがしてみたいと思ったのです。
個人に対する医療を研鑽するのも重要だけど、予防に関する研究を行なって、その成果によってより多くの人が救えたら素晴らしいことではないか、と。
ちょうどその頃の予防歯科学講座の指導教官であった宮浦一成先生と、同じく講師の森田学先生(元北海道大学歯学部予防歯科教授、現岡山大学歯学部予防歯科教授)の奨めもあり入局することになりました。ここで学んだことは数多くありますが、特にこの3つは大きかったです。
  • 科学的な物事の見方
  • 個別の臨床を超え、多くの地域住民の健康のことを考える心 (Public Health Mind 歯科保健・歯科公衆衛生の視点)
  • むし歯予防の真実・世界標準とつまようじ法ブラッシングの効果の体得
これらについては、その後の私が歯科と携わるにあたって、常に考えるようになりました。
この講座は疫学と歯周病の予防を中心に研究・教育・臨床を行なっている講座でした。
「詰め物やかぶせは実際のところ何年くらい持つのか(歯科修復物の寿命)」
「保険診療で作った入れ歯と自費診療で作った入れ歯はどちらが噛めるか」
「健康な歯列に対して、部分入れ歯や総入れ歯では噛む力が何割落ちるのか」
「歯の本数が何本以下になると物が咬みにくくなってくるのか」    等々・・・
みんなが知りたいと思いつつ、あまり研究・調査ができていない分野にたけていて、他の研究機関からも注目される講座でした。また、行政の分野にも人を多く輩出し、市や県の歯科行政を担って地域住民の健康の向上に寄与してきました。
臨床については、削らず・抜かずをモットーに非外科的な歯周治療を進めており、「つまようじ法ブラッシング」の指導・実践によってを多くの歯を抜かずに保存してきた実績がありました。治療を終えて維持管理のために定期的に来られている方が何千人もいました。
医局にて(大学院時代)
運動会にて
このような変わった講座で4年間の基礎研究や2年間の助手生活を過ごしてきました。研究自体は基礎、それも歯周病原生細菌の研究で、実際の臨床に役立つにはさらなる研究が必要なテーマでしたが、これによって科学者としての見方を養えたと思います。
科学的な事実を基にして治療や研究に携わる、いわゆるEBM(Evidence Based Medicine)の精神が身につきました。
科学的な実証ができなければよい結果が得られない、当たり前のことですが、風邪の時に薬がいいからといって○露丸を飲んで治そうとするようなことを歯科、特に予防歯科とうたっている分野でよくされていることがあります。
う蝕予防方法の効果
(世界保健機構,1986)
–う蝕予防方法–
–う蝕減少率–
水道水へのフッ化物添加
50%~65%
専門家によるフッ化物塗布
30%~40%
フッ素洗口(学校、家庭)
20%~50%
フッ素配合歯磨剤
20%~30%
シーラント(咬合面のみ)
40%~99%
砂糖含有飲食物の摂取制限
摂取頻度の減少に比例
ブラッシング(学校、家庭)
不明確
ブロッシング(学校、家庭)
不明確
余談になりますが、例えばむし歯予防、
“歯みがきでむし歯予防ができる”ときちんと証明した疫学データ(集団での治療効果や予防効果を実証した論文)は今でも存在しないことをご存知ですか?
特に、上図のような、世界の保健に関する最高機関であるWHO(世界保健機構)が発表したガイドラインを見たときは衝撃でしたね。今までの保健指導は何だったんだって・・・
運動会にて
運動会にて
アメリカやヨーロッパでは当たり前であったその事実を、その頃の教授であった渡邊達夫先生(現 名誉教授)が昭和60年に歯科投稿した際は、全国の歯科関係者からかなりのバッシングを受けたと聞いております。「歯ブラシを軽視するとはけしからん」と。でも、事実ですけどね。これについては別のコラムで解説しておりますのでご覧になっていただけたらと思います。
この時めげずに世間にアピールしていれば、世間がそのことに気付いてむし歯予防の第一選択が歯磨きからフッ素にチェンジしていれば、あなたのむし歯の半数は発病せずに済んでいたのでしょうけどね。
(予めお断りしておきますが、歯磨きは歯周病予防や口臭予防、衛生行動を身に付けるのには大変重要なので無意味ではないんですよ。単にむし歯予防的には、という話です)
後輩とともに(助手時代)
運動会にて
このことをしっかりと教えてくれたのは、岡山市で開業されているpmj歯科の黒瀬真由美先生でした。一般臨床をしっかりされていて、治療の確実性・精密性、そして患者さんへの配慮についてはいつも驚かされ勉強させられますが、何よりもすごいのは先述の極力抜かない・削らない・切らない「つまようじ法ブラッシング」を中心にした歯周治療・予防を実践して多くのファンを得ていることです。県北部や県外からも来られているそうで、まさにすごい、の一言です。うちのスタッフには入ったら早めに見学に行ってもらっています。
私もここでアルバイトをさせてもらって多くのことを学びました。今でも頭が上がりません・・・
<地域へ~滋賀県余呉町国保歯科診療所>
特に、上図のような、世界の保健に関する最高機関であるWHO(世界保健機構)が発表したガイドラインを見たときは衝撃でしたね。今までの保健指導は何だったんだって・・・
しかし、大学内では学んだことを十分実践できる環境ではありませんでした。
やはりフィールドに出て活躍したいという思いは募るものの、なかなかそのような機会がありませんでした。焦りを感じながら助手時代を2年近く過ごしました。
機会が訪れたのは、地域歯科保健研究会(通称夏ゼミ)という全国の歯科保健行政関係者または保健行政に関心を持つ人たちのワークグループに参加してのことでした。その頃付き合っていた妻とともに夏ゼミ2000に参加していましたが、そこで滋賀県庁の歯科保健行政に携わって活躍されていた井下英二先生(現草津保健所)からの紹介を受け、滋賀県余呉町に赴任することになりました。
余呉町は人口4,000人の山あいの町で、3割が65歳以上の高齢化の進んだ町でした。30年以上歯科医院のなかった地域で、平成13年春に赴任した私の主な仕事は、歯科医院の立ち上げと町の歯科保健活動の実施でした。
平成13年11月からは、余呉町国民健康保険歯科診療所の所長として、また歯科保健センターのセンター長として、同じ職場に勤務した妻の協力のもと、診療に、母子歯科保健保健に、高齢者歯科保健に携わりました。
運動会にて
運動会にて
運動会にて
<成人歯科健診>
<町長とともに>
<健康まつりでの展示>
平成14年からは町内1幼稚園、3小学校、1中学校の学校歯科医として学校歯科保健活動に従事しました。
県北の田舎町で子どものむし歯が多い地域でした。また、むし歯予防に高い効果を得られることが知られている、学校でのフッ化物洗口を平成元年から小学校で実施されていたのですが、町の内科医の反対で平成10年から中断し、児童・生徒のむし歯がデータ的に見ても増えていた時期でした。
学校での啓発活動や関係者への説明などを積極的に行なって事業再開も含めた様々な歯科保健・啓発活動を行なってきました。結局、性急な取り組みということもあって、私の代での再開は叶いませんでしたが、様々な事業を通じて歯の健康の重要性については、多少は地域の人々に伝わったのではないかと思います。
運動会にて
運動会にて
運動会にて
<老人会での講話>
<学校での指導>
<ケーブルテレビに出演>
「歯の健康」について真剣に考えてくれる地域のファン作りの重要性、地域の健康向上のためには診療所内での治療だけにとどまらず、地域へ積極的に出て、しかし決してあせらず地道な活動をすることが重要なことを勉強した勤務時代でした。
臨床については歯科全般にわたり行っていましたが、お土地柄、高齢者が多かったので、入れ歯やブリッジなど多数の欠損歯を補う治療を多数経験させてもらいました。妻とともに勤務していましたが、入れ歯は少なくとものべ500症例以上は手がけたのではないでしょうか。
それほど歯を失って困った方が多かったです。総入れ歯作りで有名な塩田博文先生に師事して研鑽を積みました。
少々の難病例ではビビらずに入れ歯作りができるようになったのは大きかったと思います。
でも、やはり「入れ歯になる前に何とかならなかったのか」という予防歯科の重要性についてはますます認識を深めるようになりました。
5年間の勤務の後、家庭の事情等もあって福山に戻る事になりました。
<歯科医院開業 ~現在、そして未来へ>
平成18年6月に福山市東陽台に歯科医院を開業しました。歯科衛生士・事務員2名ずつ、そして妻と私の6名体制でのスタートでした。坂の途中、かつ県道から少し中に入った立地でしたが、来院された方のお口添え、ごひいきもあって多数の方にお越しいただいております。ありがとうございます。感謝、ただ感謝です。
運動会にて
いろいろ地域特性に合ったスタイルを模索しながらの日々でしたが、まもなく開業3周年を迎える現在では、歯科衛生士4名、事務員1名、歯科助手2名、トリートメントコーディネーター兼事務員1名、歯科医師2名の10名体制で診療に当たっています。
チーム医療を行なう上でみんながそれぞれの特性を生かして、いきいきと業務にあたってくれています。また、インフォームド・コンセント(患者様に十分な説明をして、了解をえた上で診療を進めていくこと)の充実に常に努めており、カウンセリングルーム、カウンセリングコーナーを設置し、多彩な説明用グッズを駆使して、分かりやすくて安心できる医療の提供に努めています。おかげさまで多数の方からご好評を得ております。
一般治療はもとより、小児の治療や歯ならび治療、インプラントや訪問歯科、ホワイトニングや審美歯科など、近年の様々なニーズに応えるべく積極的に取り組んでいます。
そして、予防歯科とオーラルエステ、皆さまの健康を守るために、より上質の健康創造を目指して、日夜取り組んでおります。病気や災いに振り回される日常から、より健康的で安心できる日常に転換できれば、どんなに幸せなことでしょう。
健康の創造、私たちはそれができると信じています。
私たちは常に進化していきます。
「健康創造の拠点」地域一番を目指して精進します。
そして「お口が健康な人が福山で最も多い街」
「歯の病気に困る人がめったに出ない、めでたい街」
そんな地域になれることを夢見てがんばります。
皆さま、応援のほどよろしくお願いします。
平成21年4月30日
デンタルクリニック東陽台
院長 大石 憲一